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Real2

続き

 『RQ市民災害救援センター』は宮城県登米市に現地本部を置いている。 カバーしているのは女川~陸前高田の南くらいまで。 自分が滞在している間に河北と唐桑にサテライトができた。 本部とサテライトは電気と水がある。 料理はプロパンガス。


ボランティアは大まかに

・荷物の仕分けをするフロアー係
・総務係
・ドライバー係
・料理係
・被災者との交流やシャワーを提供する『ひまわりサロン』

に分かれていて、自分はハイエースを持ち込んだので主にドライバー担当に。


 毎日物資の搬送をしながら被災者の方達と話をした。 喜怒哀楽、全ての感情におもいっきり触れてきた。
被災地に入って真っ先に感じたのは、甚大な被害を出した原因は『津波』。 水に浸かった場所と浸かってない場所の差があまりにも酷い。 ほんの数mずれただけでまったく被害を受けなかった家もある。
海岸線から離れて山中を走っていると、いったい何のために車を走らせているのか解らなくなる。
山道をただ気持ちよくドライブしているような錯覚。 たまに鹿なども出てきて本当にのどか。 もし津波が発生しなかったら、ここまでの被害にはならなかったと素人なりに理解できる。

 被害の大きかったエリアは学校で習った『リアス式海岸』が広がるエリア。 水は細い入り江を好んで襲ったのだ。 複雑に入り組んだ細い入り江に雪崩れ込んだ津波は、行き場を失って怒り狂い、場所によっては30m近い高さまで這いずりあがった。 地区の避難場所に指定されていた高台に住んでいる人も流されてしまった場所がいっぱいある。


 被災地に赴いた直後(震災後約2週間)は、まだまだ物資が届いていないエリアが有る状況だった。 海岸線が500kmに渡り壊滅的な被害を受けている。昨今のハイテク戦争では一般人の住んでいるエリアを狙うことは少ない。はっきり言って戦争より始末が悪い。 
住んでいた人数の多かったエリアには、自衛隊が大きな部隊を置き、物資を優先的に運んでいる。 市民団体や個人でボランティアをしている人たちは、小さな避難所や自宅に残った人、地理的に隔離されて大きな救援隊が入れない場所に物資を運ぶ。

 自分が行った中では、北上川の河口に広がるエリアが、2週間たってもかなり厳しい状況だった。 必要最低限の物資も確保できていない人達が大勢いた。 動く車を所有している人はほとんどいない、人力以外で動けない状況。
何を持って行っても喜ばれる。 特に食料、水、寝袋、下着、防寒着の需要が高かった。







 被災地の時間の流れはおかしい。 あり得ないぐらい早い。 被災していないエリアの何十倍、いや何百倍も早く流れている。 極端な話、半日たてば情報は化石だ。 
それは大勢の人が復興に向けて全身全霊で取り組んでいるからだろう。
特に自衛隊員と土建業者の魂を見た。 そこが地理的に重要な場所なら、一晩中寝ないで作業している。 
何も無かった場所に道路が、橋が、電気が。。。
みんなスゲ~。 本当に感動する!



 TVにかじりついて政府や東電批判も良いけど、もう既に起きちまった事なんだ。
今は「批判するエネルギーがある奴は体張れや」って俺は思う。
マンパワー足りてないぜ。 何万人いたって足りない。 
東電の中にも体張ってる人間はいっぱいいた。 日本全国から集まって来た様々な電力会社&ガス会社の社員達。まったく違うユニフォームを着た人が一緒になって行動している。

 石巻で知り合った介護ボランティアのおばさん、どうみたって親と同じぐらいの年齢。 「初期に手を貸したら抜けられなくなっちゃった」て笑顔だったけど、目の下のクマは彼女の根性を物語っている。
被災者はもちろん、色んな人々が戦っている!




 先にも述べたけど、自衛隊の活躍はハンパないものがある。 こんな事があった。
・午後1時頃に避難所をまわって欲しい物のリストを作った。 
・その数時間後に自衛隊が訪れ、避難所に大量の物資と大型の発電機を置いていく。
次の日の朝、自分達が物資を持って行くと「それはもう必要ないです」と。

自衛隊が通過した後の避難場所は生活環境や欲しい物がガラっと変わる。 
そして彼らがもたらすものは物資だけではないのだ。 被災者にとって一番大事な「安心感」を残して行く。
「良かった、国に見捨てられていなかった」って。



『何も無かった~自衛隊通過』までの流れを経ると、時間の流れは加速度を増し、被災された方達のニーズはかなり細かくなってくる。 今までは生き抜くために必死になっていた。 気持ちも極度の緊張を強いられて、異様にテンションが高い方がいらっしゃる。  それが辛いながらもやっと一息つけ、冷静になる。 次に襲ってくるのは絶望感。 ここで、その避難所に子供が居るか居ないかで、雰囲気が大きく変わってくる。
自分が見た範囲では、両親を亡くされていない限り、2週間もすると子供達は元気に暴れだす(心理的な深い部分でトラウマになっているとは思うが)。 そんな子供達を見て大人も生きるための元気をもらう。

 子供が居ない避難所はドヨ~ンとした重い空気が漂っている場所も多かった。 体調を崩す方が多いのも2~3週間たった時期が多い。 あちこちで風邪が流行っていた。


 被災地に入って3日目くらいから、外で作業をしている人が急増した。 大きく分けると2つ。
・ご遺体や思い出の品を探されている
・家に再び住むために、泥の掻き出しなどの作業をされている


 河北・富士沼周辺は堤防が決壊して辺り一面が水浸しになったエリア。一時期、北上川より水位が高くなっており懸命な排水作業が行われていた。 東京に戻るまでに一番ご遺体を運び出すシーンに遭遇したのがこの周辺。
近くには生徒の約7割が流されてしまった大川小学校がある。 地元の方の泥だし作業を手伝いながらお伺いした話。 
海から小学校まで約4km、さらにその方のお宅までは1kmくらいある。
「このエリアでは津波に対する防災訓練は一切したことが無いよ。 まさかここまで来るとは思わないでしょうよ」「うちは2階があるから助かったけど、隣の婆ちゃんは平屋に住んでいたから亡くなってしまったよ」「大川小学校は、地震が起きて先生が生徒を校庭に避難させた。 そこに波がきて、みんな吞み込まれたって話だよ」。

泥だし作業を東北高校の野球部員たちと行った。

 もちろん彼らにもドラマがあった。 仙台で被災した彼らは次の日から復旧作業のボランティアを毎日していた。甲子園に出る当日の朝まで練習は1分もしていない。 疲労のたまっていた彼らは、残念ながらすぐに負けてしまった。 戻って来て次の日からまたボランティア。 部員の中には泥の中に沢山潜んでいるガラスや釘を踏み抜いて怪我をしている子さえいた。

 冷たく、どす黒く、重く、悪臭を放ちながら陰鬱な絶望感と共に家の中に堆積しているヘドロ。 作業を手伝った家の納屋の中には米袋があった。 ヘドロの中で3週間を経たお米は、何とも言えない芳醇な香りを放っている。 まるで酒蔵のソレだ。 TVでは決してわからない『現場の匂い』がそこにはあった。 
  



続く
(時間が取れれば、次は人間について少し書こうと思っている)
  

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